旧日01(ナナシ)*

ナナシはサカキの研究室の机の上で寝転んでいた。
ナナシはその名の通り「名無し」な存在でどこにでもいるがどこにもいない存在だ。
だからからか、あまり常識というものを持たないし、持つつもりも無かった。
今日もサカキの机の上の本を数冊ぼとぼと落としながら、その上で伸びなどをしていた。
ゴロゴロしていると、頭の上からため息が聞こえてそちらを見た。
美しい黒髪の男が、机の横に立ちナナシの方を見下ろしていた、どこかうんざりしたような顔をしている。

「降りなさい」
「やだ」

ナナシは見せつけるように、さらに机の上に体を広げると、ニヤニヤしながらサカキを見上げた。

「ここ、居心地いいんだ、すぐサカキが構ってくれるし」
「飼い主の邪魔をする猫ですか、君は」
「なに?飼ってくれるの?」
「冗談、こんなに可愛げのないペットなど願い下げですよ」

フン、と蔑んだようにナナシを見るサカキ。こんな表情見れるのは自分くらいだろうな、とナナシは思った。

「君のような得体の知れない生き物を飼うなんて、正気じゃないです」
「じゃあ正気じゃないね」
「…………」

サカキは呆れたようにナナシを見下ろす。

「まぁ、良いでしょう、今は好きにしていてください」
「いいの?」

意外な返答にナナシは純粋に問い返した。

「どうせ私の話を聞くつもりは無いんでしょう?だったらもう勝手にすればいいんですよ」

そう言うとサカキは自分の研究に戻っていった。

「……ふーん」
「……」

サカキは何も言わずに、自分の作業に没頭している。
しばらくするとナナシはもぞもぞと動き始めた。その姿が猫から次第に変化し、後には人型の生き物がいた。
それは十代程度の少年の姿をして、白い髪と金の目をした美しい容姿をしていた。

「おお、久々に人型になるの成功した」
「……なんですか、それ」
「え?何って人間だけど」
「……なぜわざわざそんなことをするんですか」
「だってこっちの方が色々便利だし、それに楽しいじゃん」
「私は楽しくありませんよ」
「でもほら、綺麗でしょ?この生き物。サカキ見てると、綺麗だなって思うから真似したくなるんだよね」

色は元のままの色だから、全然反対になっちゃうんだけど、とナナシは残念そうな顔をした。
そのまま、大きくなったサイズのまま机の上で動くと、さらに机の上のものがバサバサと落ちた。

「ありゃ?」
「……」
「あ、ごめんね、直しておくからさ」
「全く……」
「ねえ、サカキ、これどうやって戻すの?」
「……」
「ねーえー、サカキー」
「ああ、はいはい、今行きますよ」

うんざりしたようなサカキの声を聞きながら、こんな声聞くのも自分くらいなんだろうなとナナシは思った。
落ちたものを直した後は、仕方ないからソファーの上でゴロゴロとすることにした。
魔法塔の上部にあるサカキの研究室は、今はサカキしかいない。よってナナシが好き勝手できるのだ。

「にゃぁーん」
「猫ならもっと可愛げを持ちなさい」
「サカキが構ってくれるなら考える」

ナナシが居なくなった後の机で書き物をしていたサカキの方を見ると、明らかに「面倒臭い」といった顔でこっちを見ている。ナナシは意味もなく楽しくなった。

「じゃあこうしよう」

そう言ってナナシは再び猫の姿になると、サカキの座っている椅子に飛び乗った。

「お行儀が悪いですね」
「にゃん」

サカキの言葉を無視して膝の上に座ると、頭をぐりぐりと擦り付けた。

「……で、今度は何をしたいんです」
「撫でて、抱きしめて、キスして、それから……」
「はいはい、分かりました、分かったから早くしてください」
「わーい」

ナナシはまた人型に戻ると、すぐにサカキに抱きついた。
そのまま首筋に鼻を埋めて匂いを嗅ぐと、サカキの香りが肺いっぱいに広がる気がした。
サカキの肌は少し冷たく感じたが、それが気持ちよくてさらに強く顔を押し付けた。
そして彼の手がナナシの頭をどこか乱暴に撫でる。
撫でるというより手を押し付けるようなそのぞんざいな扱いが、ナナシは案外嫌いでは無かった。
人型じゃなかったら喉でも鳴らしてただろうな、と思いながら「んー……」と小さく唸った。
しばらくそうやってサカキの身体にくっついていると、だんだん飽きてきたので、次は服の中に潜り込むことにした。
胸板や腹筋の形を確かめるように指先でなぞっていく。
すると徐々に体温が上昇していくのを感じられて、ナナシはさらに楽しくなった。

「サカキ、興奮してきた?」
「……」

サカキは何も言わなかったが、否定しないところを見る限り肯定と捉えても良さそうだ。
ナナシは調子に乗ってさらに下腹部の方にまで手を伸ばす、が、その手をガッと掴まれる。

「ありゃ?」
「……」
「サカキ?」

サカキはナナシの手を掴んだまま立ち上がると、そのままナナシをベッドに押し倒した。

「サカキ、怒った?」
「別に怒ってませんよ」

そう言いながらも、どこか苛立った様子のサカキを見て、ナナシはニタリと笑みを浮かべた。
サカキのこういうところが好きだ。
彼は基本的に冷静沈着で感情の起伏が少ない男だが、ナナシに対しては違う、気がする。
いつも冷たい瞳の奥には、微かに燃える炎のような熱を感じることがある。
そういう時のサカキは、面白い。普段あまり見せない表情が見られるのは嬉しいことだ。
だからナナシはわざとサカキを怒らせるように行動することが多かった。
今日もそうだ。
ナナシは機嫌良く笑うと、抵抗せずにサカキのされるがままに身を任せることにした。

——————


サカキとの行為が終わった後、ナナシは裸のままシーツの上でごろりと転がっていた。
猫に戻ればいい話だが、いまは火照った素肌にシーツが擦れる感覚が気持ちよくてこのままでいる。
毛皮には毛皮の、人の肌には人の肌の良さがある。
隣ではサカキが服を着替えていた。なんとはなしにナナシが言う。

「ねえ、サカキ」
「何ですか」
「サカキはさ、番(つがい)作んないの?」
「……君に関係ないでしょう」

サカキが着替え終わったタイミングで話しかけると、不愉快そうな顔で返された。
ナナシはその言葉を聞いて思わず吹き出した。
本当にこの男は愛しい。
サカキは、ナナシが自分のことを好き勝手に弄ぶことを許している。それでいて、自分はナナシをこんな簡単に弄ぶのだ。
ぴょんっとシーツの海から跳ね起きて、ぐいーっと伸びをした後にサカキの頬にキスをする。
そのまま耳元まで移動して、吐息がかかる距離で囁いた。

「僕とサカキの子供なら、きっと可愛い子が生まれるよ」
「……」
「サカキ」
「………俺はあんたの玩具じゃない」

心底嫌そうな声だった。しかも喋り方が昔に戻ってる、これは本気で嫌がってる時の声だ。

「あはははっ!」

サカキのそんな様子を見て、ナナシは無邪気に笑った。
サカキはもう何も言わずに部屋を出て行った。
扉が閉まる音が聞こえた後、ナナシは一人になったベッドの上で、いつまでもクスクスと笑い続けていた。

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