湖畔の宿にて:訪問者

次の日の朝、二人の泊まる宿に訪問者があった。
「え?サカキ先生?」
ユウの声に、彼らを訪ねた男は、豊かな黒髪を風に流しながら微笑んだ。
「お久しぶりですね、ユウ。そして、ヴィー」
「お久しぶりです!」
「………ああ、久しぶりだね」
それは二人の馴染みであり、旅のきっかけでもある男だった。仕事の途中で立ち寄ったのだというサカキは、二人を見て理知的なその顔に笑顔を浮かべていた。
ヴィーはサカキのことは正直苦手だったが、ユウの大切な人物として認識している。
ユウにとってサカキは信頼できる大人の一人なのだ。たとえそれが、サカキの示唆的な行為の結果だとしても。
サカキは駆け寄るユウの額を、優しげに撫でながら耳元に何事か囁く。
「え?あ、は、はい!」
ヴィーには聞こえなかったが、ユウの表情を見る限りどうやらサカキは何か彼女に問いかけたらしい。少しだけ慌てた様子のユウが頷き微笑む。
そしてサカキはユウを離すと、今度はヴィーの方へと向き直り口を開いた。
「ヴィー、貴方にも伝えておくことがあります」
「なんだい」と、ヴィーはいつもの調子で答えようとしたが、できなかった。
サカキの目を見た瞬間に理解してしまったからだ。この男が自分に何を言おうとしているのかを。ヴィーは無意識のうちに拳を強く握りしめていた。
サカキは、隣のユウに聞こえないよう声を落としながらもはっきりと告げた。
「とんだ執着だな、彼女に君の匂いが染み付いているぞ」
「っ!お前……」
ヴィーの言葉を遮るように、サカキはさらに続けた。
「ゆめゆめ、預かりものをしている立場だということを、忘れないで下さいね」
サカキは一瞬、ヴィーの顔に浮かんでいた激情を見なかったことにしたようだった。
キョトンとした顔で、二人を見上げるユウの頭を優しく撫でながら、サカキはヴィーへと改めて告げる。
サカキの声色は穏やかだが、その言葉には有無を言わせない強制力が込められていた。
サカキがユウへ向ける視線は柔らかく慈しみに満ちたものだったが、ヴィーに向けるそれは冷たく鋭い。
「それでは、私はこれで失礼しますよ」
そう言って踵を返したサカキの背中を睨みつけながら、ヴィーは思う。
(あの男はユウを大切に思っているはずだ。でなければ、わざわざこんなことを言うはずがないけれど、あれは牽制だろうな。ユウは自分のものだって言いたいんだろ?)
ヴィーは思わず苦笑する。
ヴィーだってわかっていたのだ。自分がユウにとってただの友人という立場でいるのに対し、あいつはユウに唯一無二の信頼を向けられている。しかし、それを改めて突きつけられるとやはり面白くはない。
ヴィーは傍らでサカキの背中を見送っていたユウを抱き寄せる。
「わぁ!?ンっ」
突然のことに驚いたユウから抗議の声が上がる前に、ヴィーはユウの口を自らの唇で塞いだ。そして、そのままユウの体を抱きしめる。
ユウはヴィーの腕の中で暴れたが、やがて諦めたように脱力すると、おずおずとその両腕をヴィーの背に回した。
昨日の湖の一件から、「友達じゃないキス」もたまに受け入れてくれる気になったのだろう、ユウの柔らかい感触を感じながら、ヴィーは考える。
(そうだ、今はそれでいいさ。今はまだ、ね……)
ヴィーは、ユウを抱きしめる腕にさらに力を込める。
ユウは抵抗しなかった。
だからと言って、ヴィーがユウを手に入れたわけではないことを、彼は知っていた。
ユウは誰のものでもない。
少なくとも、ユウ自身が誰かを選ぶまでは。
ユウの心にまだサカキがいることは知っている。それでもヴィーは、ユウを手放す気はなかった。
「ん……ふぅ」
ヴィーの長い舌がユウの口内に侵入し、彼女の舌を絡め取る。
「んっ……ぅんン……っ」
ヴィーの唾液がユウの口内に流し込まれる。
ユウはそれを必死に飲み下しながら、ヴィーの服にしがみついた。
ヴィーはユウの舌を軽く噛む。
ヴィーの背筋にゾクッと快感が走った。
(ああそうだ、ユウは僕のものだ。誰にも渡さないし、手放すつもりもない)
それがたとえ、“龍”相手だとしても。

窓の外で、何か巨大な生き物の黒い鱗が、ぎらりと日の光を反射して消えた。

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